高砂山願念坊祭
高砂山願念坊祭:平成24年4月14日開催予定]
場所:富山県富山市下大久保地内
祭りの歴史:
高砂願念坊祭は安永年間(1775)に誕生し、ここに231年の歴史を刻む曳山と、戦国時代(1578)から428年の伝統を維持する願念坊祭りからなる、大久保に伝わる民俗芸能です。
曳山は文久2年(1862)八尾から譲り受けた御車山のご神体の高砂(慰と姥)を祀り、曳山囃子には最勝時から習い継いだともいわれる京都調の楽譜が演奏されます。また願念坊願念坊踊りには石山合戦(旧大阪城跡)の際、越中の僧侶・信徒集が援助のため馳せ参じたところ、正親町天皇の勅命により和睦となった平和到来(戦争11年間)を喜んで踊ったのが始まりといわれる踊りです。
大久保へは砺波地方からの開拓民によって伝えられ、長い大久保の歴史と共に現在の高砂山願念坊祭と化したものです。
しかし、第二次世界大戦(1945)の前後を通じて曳山も踊りも唄も荒廃しきり、命危うしの時代もありましたが、昭和51年10月(1976)「ふるさとを思う心に二つなし」の合言葉によって、再起不能とされた高砂山願念坊祭に命が蘇りました。
曳山と願念坊祭り:
喜永5年5月(1852)下大久保用水開設と五穀豊穣を祈願して造営された八幡宮(新宮)へ奉納する春祭り行事として位置付けられ、高砂山の神の守護として願念坊踊りが御前踊りとなり、当時僧侶の衣姿で「素踊り」「手ぬぐい躍り「竹踊り」の三つか戦国時代の名残をくむ勇壮活発な活動をしない、歌舞伎の踊りとして踊られました。また曳山は当時、山本から出発して八幡宮に奉納され、次いで囃子に「登り山」を演じながら塩野ヶ原の守護神・天満宮(上大久保5区)に詣で、その後は「帰り山」囃子を優雅に演じながら、町内(旧飛騨街道)を練り巡り、夕暮れからちょうちん山として「十日恵比寿」などを演じながら真夜中に山元に納まりました。
高砂山願念坊祭復興:
高砂山願念坊復興(1976)に際し、梅鉢法被と神子姿で踊る「御前踊り」と、お祭り法被と菖蒲姿で踊る「和踊り」が大きく二つに分かれて位置づきました。
「御前踊り」は昔ながらの踊りとして受け継がれいます。
一方「和踊り」は願念坊踊り本来の所以から、平和を象徴した歓喜の踊りとして大衆が円陣を描き、楽しく移動しながらリズミカルに踊ります。1977年に若柳吉忠吾先生(日本舞踊)によって振付されました。
法被姿と神衣装はそれぞれわが郷土の歴史を物語るものです。
塩野ヶ原開拓時代の野良姿であり、梅鉢の紋は曳山に刻まれる加賀百万石の紋章から由来し、神子姿は高砂山の稚児舞であり、菖蒲姿は当時大沢野一面に咲き誇った「沢」の象徴である黄色菖蒲(帰化植物)から由来したものです。
踊り子のかさは、戦国武将の兜から由来した稚児舞の冠を意味しています。
願念坊踊りの動作の中にみられる、百姓仕事の仕草や僧侶・信徒の拝む姿などは、長く苦しかった戦国の中から平和を念願する悲哀の表情として生まれ、日本史を物語るような先祖を偲ぶに値する貴重な踊りです。
また、高砂山願念坊祭のすべてが先祖からの血と汗と涙で結ばれた貴重な文化遺産といえます。
マスターは曳山を曳きます。
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